安吾のハッカ煙草

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【解説】東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』第3回

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第1回→https://plume1414.hatenablog.com/entry/2018/12/19/095017

 

第2回→https://plume1414.hatenablog.com/entry/2018/12/22/141626

 

 

 

 

  第2回の記事では、「二十一世紀は観光客の時代になるかもしれない。しかし、実学の研究ではその本質的な議論ができていない。だから、観光客というものを哲学的に考える必要がある」というような内容を書いていった。

  さて、その記事で、僕が最後に書いたことを覚えておられるだろうか。……観光客というものを哲学的に考えねばならない。しかし、そうしようとすると、ひとつの壁にぶつかることになる。……そういうようなことを僕は書いた。そこで今回の記事では、すばり、「その壁とはなんなのか」という話だ。

 


  結論から先に言ってしまおう、その壁の正体とは「カール・シュミットの『友敵理論』を始めとする20世紀の政治思想、及び、ヘーゲルの人間観」である。

 


  思想について関心のない方からすれば、何のことだかさっぱりわからないかもしれない。なのでまずは、「この壁というものがいかにして形作られていったか」というところから、話を始めていこうと思う。

 


  まずはヘーゲルについてだ。思想や哲学に興味があってヘーゲルの名前を知らないという方はほとんどいないだろう。ヘーゲルの思想は、後世に絶大な影響を与えた。まずはそのヘーゲルの思想を見ていこうと思う。

 


  さて、近代人にとって、「個人」とは何であったか。端的にいえば、それは個人性(私的なもの)と普遍性(公的なもの)の分裂だ。つまり、「私が私であること」と「私が社会のひとりであること」は別のこととしてとらえられていた。人間は何かを経験することによって、わたしたちは個人という枠へと押し込まれる。これはデカルトやカントにとってもそうだった。

  ヘーゲルの思想はこれを根本から変えるもので、つまり経験によって、人間は自分自身を、普遍的な存在へと成長させていくとした。つまり、ひとりひとりが、「自分はこの国の一員なのだ」という自己意識を抱くことによって、国家というものが誕生するとした。

 


  もう少し具体的に見ていく。ヘーゲルによれば、人間は「家族→市民社会→国民」という単線的な物語を辿り、精神的な成熟を果たすとされている。

  人間にとってまずはじめに突き当たる存在は家族だ。何か問題を抱えているような場合を除けば、家族というものは、(私的な)愛情によって満たされている。これをヘーゲルは「自然的な倫理精神」と呼んでいる。家族の愛情に包まれている間は、人間は自足的でいることができる。他者というものに、自己の存在を脅かされる心配はない。

  しかし僕たちは、いつまでも家族の温かい愛情の中で生きていくわけにはいかない。いずれ僕たちは冷たい市民社会に出て行かなければならない。

  当たり前の話だが、市民社会は家族とは違う。そこにはおびただしいほどの欲望が渦巻いている。そしてそれらにはさまざまなベクトルがある。そうした中では、自分の欲望がただそのまま実現されるとは限らない。つまり、自分の欲望というのは、他者の欲望を介してでしか達成できないのだ。

 

  市民社会での人間は、私的なものと公的なものの間で引き裂かれることになる。つまり、ここでの生活には、家族への愛情(私的なもの)と、市民社会での他人との触れ合い(公的なもの)がある。人間は完全に私的ではあり得ず、完全に公的でいることもできない。それが市民として生きる人間の精神だ。

  ここまで、家族→市民社会と渡り歩いてきたた人間は、最後に国民という意識を持つことによって成熟するとヘーゲルは言っている。東浩紀氏もこのように説明している。

 


  ヘーゲルによれば、ひとは国家に所属し、国民になることによってはじめて、公的=国家的な意志を私的な意志として内面化し、普遍性を特殊性のなかで経験するようになる。というよりも、ヘーゲルの考えでは、そのような内面化の実現(特殊性と普遍性の統合)こそが、国家なるものの精神史的な存在意義なのだ。(本文 p.90)

 


  市民社会での人間は、先ほども書いたように、私的なものと公的なものに分裂していた。人間は自分のこと(私的なもの)だけを考えるわけにはいかない。人間は自分一人だけでは生きていくことができず、他者との交わりによって、つまり、普遍的なものに触れて生活をしている。

  ヘーゲルは、私的なものと公的なものを統合することによって、もっとわかりやすくいえば、国民であるという意識を持つことによって、人間は精神的に成熟すると説いた。これこそがヘーゲルの人間観だ。

 


  さて、ここで時代は下り、ようやくカール・シュミットが登場する。何故ここまでヘーゲルの話をくだくだとやっていたかというと、カール・シュミットの『友敵理論』こそが、ヘーゲルの思想を煮詰めたところに存在するからだ。

 


  彼の仕事で重要なものが有名な『政治的なものの概念』だ。そこでは「政治の本質というものは、友と敵が対立している状態において、はっきりと現れる」というようなことが語られている。これが『友敵理論』だ。

  ちなみにここでの友や敵というのは、「友達」だとか「仲の悪いやつ」というような私的な意味ではなく、公的な意味だ。つまり「自国」や「敵国」というようなことだ。そして、自分たちの共同体の維持・敵の殲滅だけを考え、そのほかの要素は考慮すべきでないとした。つまりそれがどれだけ醜くとも、どれだけ倫理的に間違っていようと、どれだけ経済的な損失を被ろうとも、敵を倒し、自分たちの共同体を守ることができればそれで良い、それこそが政治なのだとした。これは一見すると、硬直的かつ乱暴とも取れるような政治思想だ。周知の通り、カール・シュミットナチスの御用学者であり、彼の政治思想は、ナチズムに理論的根拠を与えることになる。

 


  ヘーゲルの人間観は、ざっくり言ってしまえば、国民の意識を持っている(国が存在する)からこそ、人間は精神的に成熟し、人間でいることができる、逆に国家というものがなければ、人間というものは存在しない、というようなものだ。そしてカール・シュミットの政治思想は、「政治こそが国家の維持に関わる」というものだ。もっといえば、政治こそが、国家を維持し、人間を人間たらしめているということだ。

 


  元々、カール・シュミットの『政治的なものの概念』は、当時のドイツで流行っていた自由主義的な思想への批判として上梓されたものだった。今風に言えば、グローバリズム批判のようなものだ。

 


  自由主義的な思想「道路が発達して、みんなが国境を超えて色んなところに移動できるようになって、世界は一つになるんじゃねえの?」

 


カール・シュミット「何を言ってるんだ。世界が一つになったら、友敵の区別がなくなる。それによって、政治というものが消滅して、政治がなくなれば国家がなくなり、国家がなければ人間は人間でいることができなくなる。」

 


  ここまで書いていけば、カール・シュミットの政治思想というものが、どうして観光客の哲学を考えていくうえでの壁となるのか、ふと分かってくるのではないだろうか。つまり、「自由に自国の体制から抜けて、国境を越え、さまざまなコミュニケーションを生み出す観光客という存在」は、そもそも人間未満の存在であるのだ。それは家族→市民→国民というような、単線的な物語を辿ることもなく、スーッと何処かへ行ってしまうのだから。

 


  観光客は人間未満の存在。しかしそれは、ヘーゲルの人間観や、カール・シュミットの政治思想の枠組みにおいて、である。つまりヘーゲルのようなやり方ではない、別の成熟のメカニズムを解明することができるのではないか。それこそが『観光客の哲学』だ。

 


  ここで大まかな課題が見えてきたのではなかろうか。観光の時代を目の当たりにして、僕たちは観光客の哲学を考える必要がある。しかしヘーゲルパラダイムによれば、そもそも観光客というのは人間未満であり、思想的分析に足る存在ではない。だったら僕たちは、ヘーゲルとは別のやり方で、普遍性に達するメカニズムを考えればいい。

 

 

  次回では、この壁を乗り越えていく。第1回でもちらりと出てきた『二層構造』というキーワードが登場する。