安吾のハッカ煙草

文学、思想・哲学、音楽などを中心に書いています。

そごうの「女性がパイを投げつけられている」広告について

 

  元の動画

 

https://youtu.be/BXE2Q_gzWKM

 

  新年早々、一つの広告が「炎上」している。そごうの新しい広告。四方八方からパイを投げつけられた女性が、「女の時代、なんていらない?」「わたしは、私。」と、快活な様子で語りかける、一分ほどの短い映像だ。女性がパイを投げつけられるという刺激的な映像や、広告に挟まれた文章に対して、共感と同時に、さまざまな批判を呼んでいる。

 


  この記事では「この広告は何を表現しているのか」という話から始めながら、炎上の構造を読み解き、この広告を発表するということが妥当だったのかどうか、という論点まで進めていきたい。

 


・この広告は何を表現しているのか?

 


  実際のところ、炎上の一因として、「この広告が何を表しているのかがよくわからない。よくわからないけど、なんとなく嫌な映像が流れている」という漠たる不快感がある。確かに女性にパイを投げつけているという映像は露悪的であり、人によっては、理由の分からぬ不愉快な思いをするだろう。なのでまずは、この広告が何を表現しようとしていたか、という話から始めていきたい。

 

  「女だから、強要される。女だから、無視される。女だから、減点される。女であることの生きづらさが報道され、そのたびに『女の時代』は遠ざかる」

 


  「今年はいよいよ、時代が変わる。本当ですか。期待していいのでしょうか。活躍だ、進出だ、ともてはやされるだけの『女の時代』なら、永久に来なくてもいいと私たちは思う」

 


  ポイントは、「女であることの生きづらさが報道され、そのたびに『女の時代』は遠ざかる」の部分だろう。ここに違和感を覚えた人は多いはずだ。女性の生きづらさというものは、むしろ報道が何もなかった時の方が深刻だった。女性の生きづらさというものが、次々とメディアに取り上げられることによって、それを解消しようとする人々の一助になった、という面はあるはずだ。

 


  しかし、おそらくこの広告がここで表現しようとしているのは、「女性の生きづらさが報道されることによって、かえって女性が自分らしく生きる機会が奪われていく」ということではないか。

 


  これは一見すると矛盾する文章だ。しかし女性の生きづらさが報道されると、世間にどのような波紋が広がるか、ということを考えると分かりやすい。ある時に、女性の生きづらさが報道されるとどうなるか。社会はどのような反応を示すか?もちろんポジティブな運動が起こることは事実だろう。男女差別を撤廃しようと努力する人々が現れ、なんとなく社会が良い方向に向かいっていきそうな雰囲気は、一応醸し出されることになる。

  しかしそれと同時に、女性の生きづらさが報道されると、ネガティブな運動が社会に起こるということもまた事実だ。例えば、東京医大の女子一律減点というものを考えてみる(これに関して言えば、問題の本質は女性差別とはまた違うところにあるのだが、便宜上、それに相当する問題として考えることにする)。あの報道がなされた時、何が起こったか。もちろん、「一律減点など到底許されるべきではない」と、ポジティブな運動も起こった。しかし、あべこべに、「そうした一律減点は仕方のないことだ」という言説も起こった。しかも驚くべきことに、男性にとどまらず、女性にもそうした意見を述べる人が少なくなかった。もっとも、女性がそう言う場合は、一種のニヒリズムに裏打ちされている場合が多いだろう。女性でそのような意見を述べていたのは、当事者意識の強い女医が多かったということからも分かる。

  また「女性の生きづらさが報道されること」に伴う弊害の一つとして、「男性も生きづらいんだ論」が展開されることが挙げられる。女性の生きづらさの話をしているのに、どうしてだか「男性も生きづらい」という意見が割り込まれ、Twitterはたびたび地獄のようになってしまう。それが過激化すると、「被害者叩き」や「セカンドレイプ」と呼ばれるものに発展し、一部の女性たちは萎縮し、関係ない男性まで叩かれ、溝はさらに深まり、問題の解決がより遠ざかることになる。

  こういう風にして、「女性の生きづらさ」が報道されると、ポジティブな運動とともにネガティブな運動も起こり、不要な男女対立が煽られ、もはや『女の時代』という話ではなくなってしまう。それぞれの性が、自分らしく自由に生きられる、という時代は、男女が手を取り合うことなしには成立しないからだ。そごうのこの広告は、男女差別という問題を、男女二元論で考えてしまうという、現代日本の病理を糾弾しているように思える。

 


・パイは何を表現しているのか?

 


  広告では、女性に対して、クリームの乗ったパイが投げつけられている。これは「『女性らしさ』の乱雑な押し付け」の象徴だろう。女性はこういうものが好きでしょう?とパイを投げつける。つまりクリームの乗ったパイは「女性らしさ」のメタファーであり、それが女性に向かって投げつけられている=「女性らしさ」を強要されている女性、を表現しているものと思われる。

  あるいは、クリームパイを「女性が喜ぶもの(女性活躍)」のメタファーとして考えることもできる。女性は甘いものが好き、というのは、短絡的にもほどがあるが、象徴性とは本来そういう偏見に基づいたものだ。つまり、「活躍したいでしょ?ほらよ」とクリームパイが乱雑に投げつけられる。「もてはやされる」ということが、本当に女性にとって幸福なのか、という問題を考えもせずに。

(また、クリームパイは「中出し」という意味のスラングでもあるが、あくまでネットスラングであり、ここで取り扱う必然性はない。そこまでいくと正に深読みの段階になり、不毛な議論が巻き起こる羽目になる。)

  この広告においてひとつ特徴的なところは、パイを投げつける存在を徹底的に匿名化した点だ。つまり男女問題の解釈によっては、今回の広告を、「男性が女性にパイを投げつけている映像」とすることもできたが、制作側はあえてそうした方針を取らなかった。男女問題の責任を男性だけに押し付けるのでは、この問題は一向に解決しない。女性にパイを投げつけているのは「男性社会」ではあるが、決して「男性」ではない。製作者側は、「女性にパイを投げつけているのは、画面の向こうにいる無数のあなたたちですよ」という、ある意味で真っ当な問題提起をしているように見える。

 


  広告の文章で分かりにくいのは最初の二段落だけであり、あとの文章は真意が呑み込みやすい。つまり、男性がどうだとか、女性がどうだとかではなく、わたしは私の時代を生きるのだ、という、ある意味で個人主義的な主張で幕を閉じることになる。

 


・この広告は正しかったのか?

 


  何をもって「正しい」とするのかは微妙なところだ。まず、広告には大きく分けて三つの役割がある。①需要喚起②情報伝達③CSR(企業の社会的責任)だ。正直なところ、広告の主な役割である、需要喚起的な面から正しさを考えるのは難しい。この広告を受けて「絶対そごうで買わない」という意見も散見されるが、これだけ話題に登れば、マイナスとプラスのどちらが勝つかということは、正直なところ後になって見れば分からないからだ。

  なのでここでは、企業の社会的責任の観点から、そごうの広告は正当だったのか否か、ということを考えてみる。

 


  筆者が違和感を覚えたのは、前半でマクロな話を展開しておきながら、後半になって一転、個人主義的な主張がなされているというところだ。パイを投げつけられた女性は、「わたしは、私。」と力強い姿勢を見せるが、一方でマクロな問題は一向に解決していない。確かに世の中が変わらないなら、自分という存在から変わっていこうという「戦略の変更」は一理あるにせよ、みんながみんな、この女性のように強いわけではない。何度も言うように、マクロな視点で見れば、問題はまったく解決していないのだ。これでは「新たな抑圧を女性たちに課す」と言われても反論ができないだろう。つまり、問題提起はしたのだが、解決策が解決策になっていないという何とも間抜けな感じになっている。制作側としては、そんな意識は断じてないだろうが、もはや、マクロな問題自体を隠蔽しようとしているのではないか、という見方さえ成り立つことになる。

  多様な見方ができる、というのは良い広告の一つの条件でもあるだろう。しかしその広告で、なんともちぐはぐな理屈が展開されているのを目の当たりにすると、企業の社会的役割とは何なのだろうと考えさせられる。マクロの話ならマクロの話で統一して、ミクロの話ならミクロの話で統一して、一貫した論理を展開すべきだっただろう。ところどころに良い点があったのもあって、全体的に、「勿体ない」と言うのが率直な感想だ。